小坂友次郎の足跡
愛と信仰の人‐小坂友次郎翁
獣医としての友次郎は二戸兎の改良に励むなど畜産、農耕に尽力した人であった。
そういう友次郎はまた子供たちをこよなく愛した人でもあった。
宮沢賢治の会・子ども会では子どもたちによく自作自演の紙芝居を披露していたそうな。
子どもを愛したその人はまた信仰の人でもあった。
盛岡農学校の農学生時代、国粋思想から、四ツ家の天主公教会を焼き払おうという動きに参加したのだが
いきなり放火せずに議論を吹っかけ退散を求め焼き討ちにしようとの計画だったらしい。
ところが仲間数人と押し掛けると、彼らが農学校生徒であり、獣医科に属していると聞いたジャッケ神父は
目を輝かせフランスの家畜の飼い方について熱心に話しかけたのだという。
その話に興味を持った友次郎は何度も訪ね聴講しているうちにカトリック教徒になっていた。
友次郎とキリスト教との出会いである。以降、深い信仰に身をささげた友次郎であった。
馬山についての寸話
ここからテキストが始まります。ここをクリックして入力を開始。 おゐよ くやまえ てぬるふ こしむ いろ はをとち りへほあさ きへあさき よふこむ ねな らむうく やまのお ゐよ くやまえてぬ るふこしむ いろは をと ちりへほあさ きへ あさきよ ふこむ ねならむうく やまの おゐよく やまえ てぬ るふこしむ いろはをと ちり へほあさ きへあ さきよふこむ ねならむうく やまのお ゐよく やま えてぬる ふこしむ いろは を とちり へほあさ きへあ。
昭和51年7月23日/森 荘己池「北門文芸」第3号
1976年10月 刊
友次郎と宮沢賢治
------------------------------------------岩手 小坂 友次郎
年月日は忘れましたが、二郎さんとの通知に依り金田一に行き松田さんに面會致しました。福岡・一戸・盛岡花巻と随伴して議論を聞きました。賢治さんは知りませんが松田さんは仲々しつかりした人だと思ひます。松田さんを通じて賢治さんを知りました。浮薄なる明治末年、大正、昭和にかけて地の塩也と思ひます。 〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)41p〉
岩手 小坂友次郎 - みちのくの山野草 (goo.ne.jp)
松田甚次郎氏を介して賢治と知り合った友次郎。25歳違いの友次郎と賢治。宮沢賢治は1896年(明治29年)8月27日 ~1933年(昭和8年)9月21日。賢治は37年間でその生涯を閉じるが同じ岩手県人として友次郎とも親交があったといわれる。
また1939年には<賢治の会>の祝辞を担当するなど賢治とは縁の深い人物でした。
友次郎年譜
明治5年1月21日 岩手県二戸郡福岡町17番戸(現在の落久保26番地)に小坂福太郎・ハツの次男として生まれた。
同22年(18歳)4月 県立岩手獣医学校に入学。
同24年(20歳)4月4日 盛岡市四ツ家天主公教会でジャッケ神父より洗礼を受ける。<受洗名「ヴィンセンチオ」>
同25年(21歳)5月 県立岩手獣医学校を卒業(第6回 同輩は9人であった)。獣医並びに蹄鉄の免状を受ける。
6月 福岡町にて獣医師を開業。
同26年(22歳)小田島熊吉より相馬学を相伝される。
同27年(23歳)岩崎ナヲと結婚。10月 青森県にて就職。
同28年(24歳)9月 協議離婚。
同30年(26歳)3月 福岡町にて獣医師を再び開業。
8月 愛知県三河島陸軍軍馬補充部にて産馬改良普及技術員の講習を受ける。
同32年(28歳)10月 遠野南部藩喜保姫(光姫)の娘“足沢千代”と結婚。
同41年(37歳)4月 北海道日高郡手取村村獣医並びに日高地方産馬組合獣医に就職。
同43年(39歳)9月 帰郷。福岡町にて獣医を再開業。
同44年(40歳)5月 二戸馬匹改良組合を創設し技術員となる。
大正2年(42歳)盛岡高等農林学校にて病的材料観察法・内外科・病僧蹄装鉄法・馬学・顕微鏡実験の講習を受ける。同7年(47歳)4月 北海道真駒内所在の道庁種畜場に技手として赴任。
同8年(48歳)11月 札幌市古谷製菓キャンディー工場養豚部主任として赴任。
同9年(49歳)5月 帰郷。福岡町にて獣医を再開業。
6月 二戸郡農会技手兼書記(月俸30円)に任ぜられる。
同10年(50歳)帝国農会主催の郡市町村農会養豚品評会審査員を拝命。
同13年(53歳)4月 二戸郡農会技師(月俸50円)に任ぜられる。
同15年(55歳)8月6日夜第3弟徳治、釧路にて客死す。享年47歳。
昭和2年(56歳)8月 小田島熊吉より伝授を受けた相馬・剪蹄の法等を記して冊子を編み、弟・徳治供養のため頒布。
9月 岩手県桑園基本調査員を拝命。10月 二戸家兎品評会審査員を拝命。
同3年(57歳)4月 大日本蚕糸会主催の蚕業講習会にて蚕業経営論・桑樹栽培論・養蚕論の各科目を習得。
同5年(59歳)8月 県と県農会主催の園芸講習会にて受講。
同6年(60歳)6月 農林省より岩手県農林技手を拝命。
同7年(61歳)10月 県より米穀現在高調査員を委嘱される。
同8年(62歳)4月 畜産の功労により東京にて御親閲を受ける。6月 畜産改良普及委員となる。
同9年(63歳)11月 産業組合中央会講師を委嘱される。
同10年(64歳)4月 二戸兎(兎毛白種)改良研究会顧問となる。
同12年(66歳)3月3日 盛岡市菜園・中央映画劇場横・小坂忠(郡農会技師)の下宿にて鏑慎二郎・菊池暁輝と初対面す。菊池は当時中劇の支配人であった。それより菊池の主宰した宮沢賢治の会を通じて馬山独自の人間活動を展開する。
5月 農林省より農林技師に任ぜられる。
同13年(67歳)11月 岩手県副業指導員(日当4円)を嘱託される。
同14年(68歳)5月 二戸郡農会改組と同時に退職する。
同17年(71歳)7月19日 盛岡市桜山神社に於いて有志により「六十六堂小坂馬山翁養兎報告行脚壮行式並びに百馬会」が催される。
同19年(73歳)10月3日午前5時20分昇天。
同21年10月13日 盛岡市川原町円光寺に於いて有志により3回忌「馬山おじいさんを語る集い」が催される。
同22年10月10日 盛岡市寺の下・川鉄に於いて「4回忌小坂翁の集い」(川村一三氏飯岡村村長就任祝賀を兼ね)が催される。
同23年5月17日 二戸市福岡町よか楼に於いて「馬山翁追悼会」が催される。
*その後、時折、岩手銀行様などをはじめ岩手県内にて小坂友次郎(馬山)の展示会などが開催されるなどする。
*福岡中学校校庭脇には以前には「二戸兎」銅像、また現在でも小坂友次郎の歌碑が設置されている。