敬虔なカトリック信者であった小坂友次郎の妻・千代

信仰の人~千代

千代の母~遠野弥六郎の三女・喜保姫

遠野南部の菩提寺・大慈寺(遠野市)

晩年の千代
晩年の千代


第三十二代・遠野南部藩・南部弥六郎・喜保姫の娘 


岩手県遠野に鍋倉城という古城跡があるが今は公園として整備されている。この遠野市の鍋倉城に生まれ育ったのが千代であった。母は、盛岡藩主の一族、遠野南部藩主弥六郎の妻・喜保であった。その三女として生まれ、現在の一戸より小坂に嫁いだのが千代であった。<黒沢恒夫・編「九戸政実」より>

民話の里遠野に押し寄せた百姓一揆の大群~
今も遠野で語り継がれる<弘化の押し寄せ>の一件


民話の里としても知られる遠野の領主は、盛岡藩主の一族南部弥六郎(遠野南部氏は代々弥六郎を称している)であった。寛永4年(1627年)、遠野の地を与えられた弥六郎は、遠野盆地の南端に位置する鍋倉に館を構え、1万石ばかりの領地を支配。遠野南部氏は、代々名君の誉れ高く、そのため遠野の領民は安らかな生活を送ることができたと伝えられている。弘化4年(1847年)、三閉伊地方(現在の陸中海岸一帯)の農民が大挙して遠野に押し寄せた。南部藩の圧政に苦しみ、故郷を後にした農民の数は一万数千と伝えられる。
三閉伊の農民たちは、遠野の人々に他意があったわけではなく名君として知られる南部弥六郎に窮状を訴えたかったのだ。南部の圧政に不満を感じていた弥六郎は、彼らの願いを聞き届けた。そして弥六郎の尽力により、一時的ではあるが、農民たちの願いはかない、圧政から解放されたのであった。遠野地方では、この一揆のことを<弘化の押し寄せ>と称し、さまざまな民話とともに今も語り継がれている。
第三十三代遠野弥六郎・明治12年6月23日60歳にて没

鍋倉城・JR遠野駅下車・徒歩15分
「日本の名城・古城~物知り辞典」主婦と生活社
監修・小和田哲男 氏より


小坂千代について

小坂千代氏は、旧姓足沢氏で父を秀利、母を遠野南部弥六郎娘喜保姫。その三女として生まれる。父をおとど様と言い、近在の田鎖、佐々木、三浦、米田、田中館、蛇沼氏などと親しくしていた。父は「くるしうない近う参れ」と言い、母をおかが様と呼び、台所には下らず「お前達、良きに測らえ」と侍女たちに任せきりだったという。
また年中、おかいどりを着用し、城外に一歩も出なかったが正月十六日儀礼により侍女を従え、御立傘にて城下を見廻ったという。幼女の頃の火傷の痕跡が顔半分にあり、それでも<光姫>と称されるほどの美しさだったといわれている。娘・千代女は、長じて二戸市福岡町(岩手県)の小坂友次郎に嫁ぎ、昭和42年年9月・86歳で生涯を閉じるまではキリスト教を深く信仰した。二戸に在ったキリスト教会、ゲオルク・シュトルム神父とも親交があった。


小坂千代とも親交のあったゲオルク・シュトルム神父


「木を植えた人・二戸のフランシスコ~ゲオルク・シュトルム神父の生活と思想」
黒澤勉著/イー・ピックス発行/¥1,900+税
2018年7月発刊

黒澤勉氏略歴:1945年青森県十和田市生まれ。東北大学文学部国文学科卒業。27歳でシュトルム神父に出会う。
以来、40年余り師事してきた。岩手県内の高校教師を22年間勤めた後、岩手医科大学教養部、共通教育センターの文学科講師として20年間勤務し、2011年退職。著書に「日本語つれづれ草」「病者の文学~正岡子規」「子規の書簡(上)(下)」「東北民謡の父 武田忠一郎伝」「言葉と心」「盛岡ことば入門(一)~(五)」「オーラルヒストリー拓魂」
近年に書かれた論文に「柳原昌悦と宮沢賢治」「満蒙開拓青少年義勇軍の夢と現実」がある。いずれも『北の文学』所収。

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